当時の電話の普及ぶりからみると、ベルの音に仕事をしばしば中断させるようなことも考えにくい。


とすると、食わず嫌い、というものではないだろうか。


いつの世にも、新しいものをただ新しい、というだけで忌避する人がいるものです。


電話をかけながら、頭を下げたりする光景は、今日でもよく見られるが、この『ひかえ帳』にもすでに登場しています。


料理の註文を承はれる男の、電話の前に丁寧に頭を下ぐるを、女中達の見て一時にどつと笑ひ出せば、何がをかしい、お屋敷からちやないか。


このように、エーユー 大和などの携帯電話という媒体を忘れて、ときには頭を下げたりしながら話をすれば、誠意は必ずや相手につうじるにちがいない。


このことは明治もいまも変わってはいない。

いまでは、誰が、どこから電話しようと、たとえ、衣きらきらの老僧がau 大和などの携帯電話で話していても、法事の帰りに急用でも思いだしたのか、くらいにしか考えない。


明治30年の東京の電話加入数は3370にすぎなかったので、電話の利用経験者もかぎられており、このことが「似合はしからず覚えぬ」になったと思われます。


この作者は、明治31年に『ひかえ帳』を著しているが、ここにも電話が登場する。


今の世に取分けて好かぬ物はと、飽くまでわれを片意地に仕倣したる人の、わざとの如く問寄るに答へて、壮士芝居と電話と、瓶詰の酒と也。


一たびも自ら読へしことなし、観しことなし。


壮士芝居は明治12年、電話交換は23年にはじまっており、瓶詰の酒は明治11年ころからつくられています。


これらはいずれも、当時の人びとを驚かせ、あるいは興味を抱かせるに十分でした。



文学に表れた電話を系統的にたどるため、文学全集をはじめ多くの文学作品のページをくってみると、当初は財産的色彩の強かった電話が、しだいに社会・一般の人たちの間にとけこむ過程が浮きぼりになってくる。


また、電話そのものに関する文学者ならではの描写、電話をかける楽しさ、といったものも、作品のなかにしばしば表れる。


電話が初めて文学へ登場したのは、私の知るかぎりでは斎藤緑雨の『あられ酒』です。


この作品は、東京と横浜に電話が出現して7年後の明治30年に発表されています。


文学と言えば、今ではエーユー 大和などの携帯電話で手軽に読めますね。便利になったものです。

専用電話は場電600回線、その他の回線530におよぶ膨大なもので、まさに証券市場こそ「電話が勝負」ということを、その数が物語っています。


なお、証券取引所には、インサイダー取引防止のため、上場企業の情報記録の閲覧制度(ファイリング制度)があるが、さらに、利用者の便宜を図るため、記者発表などの公開資料全文を、ファイリング、データ・システムに入力し、会員にたいして、ファクシミリによる伝達システムを1990年4月から開始した。


いわゆるディスクロージャーで、au 大和などの通信回線による情報の公開が、一段と進んだことは特筆に値するといえよう。


東京証券取引所に上場されている、上場企業数は約1700社(1990年3月現在)で、そのうち150銘柄は、市場館一階の大フロア株券売買立会場のポストで行われ、他の1550銘柄は、コンピュータによりシステム売買室で行われています。


投資家の売買注文は、全国の証券会社支店から本社株式部に集中され、株式部から市場内の専用電話へ直接発注されるものと、取引所地階の各証券会社のコンピュータ室端末に送られ、さらに整理をされて立会場ブースに、エアシューターで送られる二つの回路があります。


このほか、株価指数(TOPIX)先物取引室、株価指数オプション取引室、債券売買立会場、債券先物取引室などに、エーユー 大和にも通信ネットワークがはりめぐらされています。

設備拡充法の落とし子のように誕生した、後発の公共電話証券の一社だけが、債券専門証券から脱皮して、平成元年には東証の会員証券会社に成長して、健在です。


電電公社から、加入者債の発行廃止を記念して、920ページにおよぶ『加入者債券の記録』が刊行され、諸般の事情と資料をくまなく伝えているが、流通分野の脇役をつとめた専門証券には、まったく触れるところがないので、電話債券が証券市場におよぼした波紋の一側面のよすがとして、書き添えておこうと思います。


それにしても、au 大和の携帯は人気でなによりですね。

エーユー 大和の大元と申しましょうか、加入者電話債の売買は、公募債の発行市場に直結している引き受け証券会社では、公募債と格段と利回りがちがうために、公募債消化の立場上、取り扱いにくい事情もあって、消極的な姿勢だった。


そういう風潮のなかで、赤木屋証券は28年早々から、その取り扱いを宣伝して、広く大衆に知られるところとなりました。


昭和30年代にはいると、電話債券取り扱い専門の小証券会社が、相ついで設立されたが、これらの証券会社は、41年の証券免許制移行に際して整理、統合され、わずか10年足らずの寿命で、すべて証券市場から消えてしまったそうです。

こんにちは。


今日から電話に関する歴史を語ろうとブログを始めました。


宜しくお願いします。


・・・昭和30年8月から、電話債券の気配交換市場が開始され、31年に東証、大証で戦前の債券市場が再開されたものの、調整された気配交換値を発表するだけのものにすぎなかった。


36年10月に電話債券が市場に上場され、41年に国債が上場されるまでは、戦後20年近くも、市中金利に連動して相場が形成される債券の流通市場はなかったといえます。


こういうなかで、電話債券だけが、電話加入者からの供給と、一部の個人消化や当時の余資機関とされた農林系統金融機関、共済組合などの機関投資家の需要によって、売買市場が形成された。


そのことを思うと、春秋の筆法をもってすれば、電話が戦後の債券市場を生みだし、後年の公社債市場の誕生を先駆した、といえなくはありません。


今はau 大和があるのでなんら問題ありませんが。